2018年01月13日

本朝食鑑

1697年人見必大(ひとみひつだい)によって書かれた本草学の文献です。

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現代の和食のルーツは室町時代から江戸時代にあります。それらの時代に注目して日本の食文化を研究した文献やウェブサイトが数多くあることは既に周知のことでしょう。

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そのような文献に必ず登場する書籍が元禄時代に出版された「本朝食鑑」です。
これは日本で初めて体系的に庶民の食を医学的に解説したもので、中国の元時代に書かれた「食物本草」や、明時代の「本草綱目」を手本にして難解な漢文で書かれています。
全体は水部以下12部で構成されており、個別の品名を挙げて、その性質、能毒、滋味、食法その他を詳しく説明しています。つまりこの文献を読めば、元禄当時の日本人がどのような食材をどうやって食べていたかが手に取るようにわかるわけです。

例えば、泥鰌の項には、
「養殖泥鰌は肉も堅く、味もやはり美くないが、天然泥鰌は味は最も鮮美である」
というような味の講釈が書かれており、「大阪府島本町の東大寺付近の泥鰌が美味」と、具体的な名産地まで書かれています。これを読むと、既に「泥鰌の養殖」が江戸時代初期に行われていたことがわかります。

蕎麦の項目では、蕎麦切、つまり現代の「蕎麦」に関する解説があります。
その一節に、
「蕎麦切の煮湯を蕎麦湯ともいう。蕎麦切りを食べた後、この湯を飲まねば、必ず中傷される、また、たとえ多食して腹が飽脹したとしても、この湯を飲むと害はないといわれている。然ども、まだ試してみたことはない。」
と書かれています。これが日本の文献に現れた「蕎麦湯」の最初の記述です。

さらに、現代のワインである「葡萄酒」の項には、その効能と製法が書かれています。
「腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は、葡萄の能く熟して紫色になったものを、皮を去り、滓と皮とを強く漉して磁器に合わせて盛り、静かな処に一晩置き、翌日再び漉して汁を取る。
(中略)
大抵この酒を造る葡萄の種としては、蘡薁(えびづる)が一番よい。つまりは山葡萄である。俗に黒葡萄というものも造酒に佳い」

読んでいると、葡萄酒の古酒を楽しんでいるような気分になります。

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「食物本草」や「本草綱目」と比較すると、中国の食文化と日本のそれの相違がよくわかります。
即ち、「本朝食鑑」に記述が多いのは魚介類で、逆に「本朝食鑑」に記述が少ないものは、獣類・虫類です。
獣類の解説も、胆や皮は「薬」として扱っているものの、内臓や血液についての解説は皆無です。

(本文と写真は関係ありません)
posted by シモン at 05:00| 東京 ☀| Comment(17) | 古典 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
酷寒となつた、甲府市内の夜明け前。
昨日の藤原さんの説明を読みながら、改めて其の知性に、感じ入る。

サテけふも、乾坤一擲、一番槍。
Posted by 百足衆 at 2018年01月13日 05:19
一番槍を目指して5時前から待機してたのに、タイムラグで一番槍を逃したでござる
Posted by 田舎帝王 at 2018年01月13日 05:48
百足衆様、お見事。

田舎帝王様、惜しかった♪
Posted by ラー at 2018年01月13日 05:59
関が原の戦いで井伊直政に一番槍を奪われた福島正則の悔しさがわかる気がします
Posted by 田舎帝王 at 2018年01月13日 06:31
どこかの国では、こうした文献を21せいきになってからねつ造する
Posted by デハ at 2018年01月13日 06:42
寒冷、なれど快晴となつた、甲府市内の朝。
けふの「わろ天下」小野但馬守は、銀粉蝶と仲直りし、謝礼金の五千円の小切手を渡す。

という、回でした。
サテ田舎帝王さん。けふの爺は、松平忠吉の気分ですナ。天下一品。
サテデハサン。自発的に、捏造をやめて欲しいですナ。かの新聞社もです。
Posted by 百足衆 at 2018年01月13日 08:19
じしゅーっ へんのう!返納!
菅原君。

これまで、私が立て替えておいた、昼食代、

そろそろ払って、もらえませんか。
そろそろ払って、いただけませんか。

借金を、藤原さんに負ったままでは、
菅原君も、

肩身が狭いでしょう。
肩凝りが激しいでしょう。

はよーん かえっせ!カエッセ!
Posted by 藤原 at 2018年01月13日 15:33
デハさんには

藤原さん=かの国
私=日本

にたとえれば、わかりやすいですね。
Posted by 菅原 at 2018年01月13日 16:08
漆黒の闇に包まれた、甲府市内の夜。
来週の「わろ天下」松坂桃李が、逝去する。

という、回になりそうです。お愉しみに。
サテ菅原君。キチット、師、藤原さんに、昼食代を返却してあげて下さいナ。
Posted by 百足衆 at 2018年01月13日 21:12
私は藤原さんは忠平公だと思っていたのに、菅公をいじめる時平だったとは残念です。
しかし、祟っても祟っても死なないゾンビ的な強さを持ち、菅公が気の毒です。
Posted by デハ at 2018年01月13日 21:29
漆黒の闇の中、甲府市内の夜明け前。

サテけふも乾坤一擲一番槍を目指して待機するも、法螺の音なし、無念也。

サテデハサン。菅原君は、ゾンビのやうに、不屈です。
Posted by 百足衆 at 2018年01月14日 05:39
今日は自宅でラーメン食べながら「風林火山」視聴予定です♪
Posted by ラー at 2018年01月14日 07:12
快晴となつた、甲府市内の昼下がり。
けふの「風林火山」
前回笛を吹きながら血を吐いた由布姫(柴本演)は、勘助(内野演)に対し、
「私はもう長くは生きられない。勘助は嫁を迎えて山本家を確固たるものとし、末永く四郎を支えてほしい」と語る。
一方で武田晴信(亀治郎演)は、越後と木曽のどちらを攻めるかを由布姫に問う。
由布姫は、木曽攻めを献策し、勘助も姫の軍師ぶりに驚く。
勘助は早速、木曽に進軍して行く。
従軍した伝平衛(有薗演)は、真田の素破、葉月(野際陽子の娘演)が、
「素破という仕事柄、寝技を使ったりする。気持ち佳くなった時など、得した気になる」
と云うのを聞き、錯乱する。

木曽攻めの最中、長尾景虎(学徒演)が兵を挙げ、善光寺平に布陣した。晴信は急ぎ木曽に出陣するが、戦線は膠着して持久戦と為る。

勘助は太原雪斎(伊武演)を仲裁者として、和議を申し入れる。景虎は受け入れ、第二次川中島合戦は手打ちとなって終結した。
雪斎は駿河に戻り、松平元信にお酌をしてもらいながら酒を飲んでいると、急死する。

同じ年の初冬、由布姫も晴信に見守られて息を引き取った。木曽の陣中で、勘助はその悲報に触れ、気が狂う。

という、回でした。

サテ、田舎帝王さんの解説や、如何に。
Posted by 百足衆 at 2018年01月14日 14:35
今週の西郷どん 〜石高ってなに?〜

秀吉の時代に入ると全国規模で検地が行われました。

いわゆる太閤検地ですね。

この太閤検地により信長時代まで使われていた貫高制に代わって石高制度が取り入れられました。

風林火山で山本勘助は知行100貫で武田家に召し抱えられましたが、勘助は晴信から100貫文分の農作物の取れる土地を与えられたことになります。

長谷川平蔵は家禄として400石を幕府から与えられていましたが、長谷川家は400石分のお米の取れる土地を知行していた事になります。

貫高と石高の違いはその土地で取れる農作物の売り上高(石高制度ではお米のみの計算になりますが、貫高制度ではお米以外にも畑で取れた農作物も収入として換算されます)か田んぼで収穫できるお米の収穫量の違いがある訳です。

ところでこの石高ですが、石と言うのはお米の取れる土地の広さとかお米の重さを量る単位とよく勘違いされますが、石と言うのは体積の単位の事で1石は約180リットルになります。

この180リットルの中にどれだけのお米が入るかと言えば、150キログラムのお米が入ります。

なぜ、1石を150キログラムと定めたかと言えば、当時の成人男性が1年で消費するお米の量が大体150キログラムになるからです。

この1石は1斗(18リットル・お米1.5キロ分)が10個集まったもので、1斗は1升(1.8リットル・お米1.5キロ分)が10個集まったもので、1升は1合(180ミリリットル・お米150グラム)分が集まったものになります。

さて、ここからが本題ですが、この1石にどれだけの価値があるかと言うお話です。

この1石の価値が判れば当時の懐事情が判ると言う訳で、この1石の価値が分かれば大河ドラマや時代劇が数倍楽しめると思います。


とは言っても、現代においてもお米の銘柄や時期、その年の天候や社会情勢などにより米価が大きく異なってきます。

ましてや、現代に比べて農業技術が発展途上だった江戸時代はその影響は猶更ですが、そのような事を言っていては話になりません。

そこで、一つの目安としてお米10キログラムを5000円として計算すると大体の感じがつかめてくると思います。

お米10キロを5000円と計算すると、1石150キログラムなので、現在の貨幣価値に直すと1石は5000×15=75000円となります。

長谷川平蔵の家禄は400石なので、75000×400=3千万円が長谷川家の年収となりますが、これはあくまでも400石分の知行地で取れるお米の量なので、ここからお米を作った領民との折半となります。

税率を四公六民とすると、3000000×0.4=1200万円が長谷川家の収入となります。

現在の感覚からすると、年収1千万オーバーなので、長谷川家はかなり裕福な家庭のように見えますが、ここから生活費の他にも家禄にあった分の奉公人の給料を払ったり、旗本同士の交際費(実を言うと、この交際費の出費が武士の家計を苦しめていた)を払ったりしていると、かなりキツキツな生活を送る羽目になります。

特に、一大消費地である江戸の物価は高く、地方であれば300石もあれば十分生活できるぐらいの収入になりますが、江戸在住の武士にとっては米価安の諸色高で生活は苦しかったと言われています。

6~700石以上あれば生活に余裕が出てきますが、それ以下の武士は生活が成り立たず、内職をしたり拝領屋敷の一部を町人に貸したりして副収入を得ていました。

下級武士が多く住んでいた御徒町周辺に職人が多いのは当時の名残とも言えます。

さて、ここで少し話を戻しますが、先ほど、山本勘助は知行100貫を与えられたと書きましたが、貫高制度で100貫はどれだけの価値になるかと言うお話です。

1貫は2~4石ぐらいの価値と言われています。

1貫を2石として計算すると、山本勘助は200石を与えられたことになり、収入は1500万円になりますが、米価は江戸時代に比べて戦国時代は高いと想像できるので、1石を10万円として計算します。

1石を10万円とした根拠として、江戸時代の初め1両が10万円の価値があり、1両で1石のお米が買えたと言われているからです。

1石10万円として計算しなおすと、山本勘助は20000万円分の農作物が取れる土地を与えられたことになります。

そこから年貢として勘助が手にするお金を計算すると、おそらく、武田家の税率は徳川幕府の税率よりも高いと思われるので、六公四民で計算します。

すると、200000×0.6=12000万円が勘助の年収となり、そこから武田家の軍令に従って軍備を整えた事になります。

他人の懐事情を調べると面白いですね。

さて、江戸時代初期に1両は10万円ほどの価値がありましたが、その後、度重なる改鋳や農業生産性の向上、それに物価高により1両の価値が下がっていきます。

江戸幕府が終焉を迎える一歩手前の慶応年間に至っては、政情不安も手伝って1両あたり3千円ほどの価値まで下がりましたが、西郷どんの青年期である天保年間の1両は3万円ほどの価値だと言われています。

当時、薩摩藩には500万両ともいわれる膨大な借金がありました。

今の貨幣価値に直すと、薩摩藩は50000000×3=1兆5000万円の借財を抱え込んでいた事になります。

この借金の数字を見れば、劇中、斉興や笑左衛門がお金にがめつかったのも解る気がしますね。
Posted by 田舎帝王 at 2018年01月14日 19:41
漆黒の闇となつた、甲府市内の夜。
けふの「セゴどん」セゴ(鈴木演)は、借金のかたに奉公に貰われていく、百姓の娘を救う事が出来ず、地団駄を踏む。

という、回でした。
サテ田舎帝王さん。見事なまでの、石高の解説、素晴らしい。
此れを読むと、江戸時代の経済が理解出来る。
と共に、大河ドラマも100倍愉しめる。

然し、貨幣価値という物は、年々低下する。つまりインフレの連続という訳ですナ。
そういう時は、利率が良いという面もある。最近は、銀行にお金を預けても、利息がつかず、苦しい時代となつた。
Posted by 百足衆 at 2018年01月14日 19:56
1斗はお米15キロの書き間違いですね

さて、次回は薩摩藩が貧乏になったお話でも書きたいと思っています

薩摩藩が貧乏なのは、半分自業自得なところがあるんですよね
Posted by 田舎帝王 at 2018年01月14日 20:06
漆黒の闇の中、塵を集積所に置いて来た、甲府市内の朝。
けふの「わろ天下」わろ(葵演)の主人、松坂桃李の、生死や如何に。お愉しみに。

サテ田舎帝王さん。
薩摩藩には、武士が多くて百姓が少ない上に、宝暦治水等の普請に狩出され、貧乏藩になりましたナ。

然し、昨日のセゴどんでは、島津斉彬が百姓を救う名君の様に描かれていたのが、可笑しい。斉彬が藩主になると、蘭学の影響を受けて軍備に金を使い、余計に重税になる、と云うのを笑左衛門らが心配したからであろう。
Posted by 百足衆 at 2018年01月15日 04:47
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