2018年03月31日

中華航空140便墜落事故

1994年に旧名古屋空港(現:小牧空港)で起きた、中華航空機の墜落事故です。

china_airline_accident.jpg

明日から4月、新しい年度の始まりです。
4月は多くの人にとって新たな人生のスタートとして、感慨深いものがあることでしょう。

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そんな4月の後半、1994年の4月26日に名古屋で墜落事故が発生しました。当時、会社の食堂で同僚と一緒にこの報道を見ていた私は、その当時の模様を今でも鮮明に覚えています。

台湾桃園国際空港(台北空港)を飛び立った中華航空140便(エアバスA300-600R型機)は、名古屋空港へ着陸態勢に入りました。慣熟訓練も兼ねていたためか、着陸の操縦をしていたのは機長ではなく副操縦士でした。
機長は、操縦する飛行機の「ゴーレバー」(着陸やり直しレバー)がONになっている事に気づきます。
「君、ゴーレバーがONになっているよ」という機長の声がボイスレコーダーに記録されています。
このため、機は「ゴー・アラウンド」モード、つまり着陸やり直しモードに移行します。

副操縦士は操縦桿を前に押して機首を下げようとしましたが、自動操縦モードだった機は、操作に反発してどんどん機首を上げます。さらに機首を下げようとする副操縦士の操作で、昇降舵は機首下げ限界まで下がる一方で、水平安定板は機首上げ限界まで作動するという異常な事態になりました。
機長が操縦を代わり、着陸をやり直そうとましたが、異常な体勢で急上昇を試みたため機は失速し、そのまま滑走路に墜落しました。

この事故で乗客256名、乗員15名の合わせて271名のうち日本人154名を含む乗客249名と乗員15名の合わせて264名が犠牲になり、乗客7名が重傷を負うという大惨事となってしまったのです。

この事故は、事故を起こした機体の製造元であるエアバス社と、アメリカのボーイング社との設計思想の違いにより生じたものです。ボーイング社の航空機は、人手による操縦により、自動操縦モードは解除される仕組みになっていました。一方、エアバス社のそれは、人手操作の介入があってもあくまでも自動操縦モードを堅持しようするものでした。中華航空の乗員は、ボーイング社の設計思想に慣れていたものの、エアバス社の飛行機の操縦思想に慣熟していなかったため、このような事故が起きたと考えられるのです。

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近年、自動運転車の開発が進み、人間による運転よりも、多くのセンサー技術を活用することで事故を回避できる機会が増えることが期待されています。
しかし、このような切羽詰った状況で、人間の操縦への介入をどう解釈しどう反応すべきかは、自動車メーカー各社ばらばらでは、うっかり買い替えも出来ません。

(本文と写真は関係ありません)

posted by シモン at 05:00| 東京 ☀| Comment(23) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
乾坤一擲、一番槍。
Posted by 百足衆 at 2018年03月31日 05:02
百足衆様、百足衆様、

一番槍、

おめでとうございます。
おめでとうございます。

ことっほぎゃ!ことっほぎゃっ!
ことっほぎゃ!ことっほぎゃっ!
ことっほぎゃ!ことっほぎゃっ!
ことっほぎゃ!ことっほぎゃっ!
ことっほぎゃ!ことっほぎゃっ!
Posted by 藤原 at 2018年03月31日 05:25
晴れとなつた、甲府市内の朝。
けふの「わろ天下」青空劇場で北村商店は小芝居を披露し、松坂桃李が渾身の一発芸「ホーホケキョ」を演ずる。

という、最終回でした。来週からは「半分青い」の詳細解説をお届けします。お楽しみに。

サテ藤原さん。祝福、ありがとう。
皆の衆で、寿ぎましょう。こっと ほっぎゃ。
Posted by 百足衆 at 2018年03月31日 08:12
写真が拡大できませんが・・・?
Posted by anon at 2018年03月31日 09:26
修正しました。
Posted by シモン at 2018年03月31日 10:28
晴れとなつた、甲府市内のお昼前。
けふの昼食が、発表された。
昔ながらの、中華そばだ。支那竹も、つく。

サテ一番槍の、余勢を駆って、恒例の昼食予想。
GATTOさんは中華おこげ。
デハサン達は焼そば。
ラーサンは汁無坦々麺。
シモンさんはコンビニおにぎり。
田舎帝王さんは海南チキンライス。
燈台森さんは長崎皿うどん。

と、予報。
Posted by 百足衆 at 2018年03月31日 11:35
今日は、早お昼をいただいて、これから出かけます。ざるうどん(天かすをかけて、たぬきうどんにしました)と親子丼のセットでした。
Posted by GATTO at 2018年03月31日 11:41
塩こうじラーメンでした
Posted by デハ at 2018年03月31日 12:53
本日はあんかけ焼きそばを食べました
Posted by 田舎帝王 at 2018年03月31日 15:48
今日は休日なのでブイヤベースでした
Posted by シモン at 2018年03月31日 15:54
汁無坦々麺、なかなか見つからないので
スーパーで冷凍のを買ってきて自宅で食べました♪
Posted by ラー at 2018年03月31日 16:33
お好み焼きでした
Posted by 谷汲線デロ一形 at 2018年03月31日 19:44
晴れとなつた、甲府市内の朝。
けふの「半分青い」の宣伝番組。青(永野演)は、岐阜県出身者だとわかる。

という、回でした。
サテ昨日の戦果報告。微妙に外れ、ラーサンだけ正解でしたナ。
平日と違い、土用日曜は、予想が立て辛い。

けふも早々に昼食予報。
GATTOさんはまい泉のかつサンド。
デハサン達は焼肉定食。
ラーサンは天津飯。
シモンさんは親子丼。
田舎帝王さんはマクドナルドのバリューセット。
燈台森さんは海鮮チャーハン。

と、予想。
Posted by 百足衆 at 2018年04月01日 07:22
この事故は、
「機械の頭脳と人間の頭脳のどちらが優先されるべきか」
という命題のきっかけとなった、象徴的な事故だったと思います。

それ以前は、間違いなく「人間が優先」でした。機械に人間のような細かい思考や操作が出来なかったので、あくまでも人間の処理を部品として補助する役割しかありませんでした。

AIの発展で、いよいよ「機械が人間に優先する」時代になってきました。人間は機械に任せたまま、しかし原因不明な事件や事故が起きた時、人間は原因究明や再発防止作が打てるのでしょうか。疑問です。
Posted by 無名X at 2018年04月01日 08:49
無名Xさん

その頃は「AIの起こした事故を解析するAI」が出来ていることでしょう。
Posted by シモン at 2018年04月01日 09:32
鶏天そばでした。
Posted by GATTO at 2018年04月01日 13:57
百足衆様、

天津飯を食べて来ました♪
Posted by ラー at 2018年04月01日 14:29
豚骨ラーメンでしたが美味くなかった。というより、本当は美味いのかもしらないが、私がこういうしつこい味を受け付けなくなってしまった
Posted by デハ at 2018年04月01日 15:34
味噌ラーメンでした
Posted by 谷汲線デロ一形 at 2018年04月01日 16:25
今日はデイリーヤマザキのカツカレーでした
Posted by 田舎帝王 at 2018年04月01日 16:28
夜となつた、甲府市内の夜。
けふの「セゴどん」セゴと渡辺謙の対談。つまらなかった。

という、回でした。
サテけふもラーサンのみ的中。不調が、続く。
Posted by 百足衆 at 2018年04月01日 20:24
ひとりの少女が野原に舞う蝶に手を伸ばした時、騎馬武者が駆け抜けた。

村は焼かれ、終わりなき混乱の中、流血は絶えることなく人々は傷つき疲弊していた。

時は変わり天正18年。

場所は相模国小田原。

度重なる上洛の命に従おうとせぬ北条氏を討伐するべく、関白豊臣秀吉率いる討伐軍が急峻な箱根の山並みを超えて無窮に広がる関東平野に攻め込んだ。

その数20万。

数に劣る北条勢は難攻不落と謳われた守り堅固の小田原城を頼りに徹底抗戦の構えを見せた。

石垣山城から睨み合いと小競り合いが繰り返される戦場を見下ろしている秀吉のもとに一人の男が現れた。

「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ使い道がある」

小田原城を力で攻め落とせば双方とも多くの血が流れ、後々までに禍根を残すことになる。

無用な流血を避け、100年の長きに亘り関東の地を能く治めた北条の力を取り入れるべきである。

男はそう考えていた。

男の進言を受け入れた秀吉は戦の帰趨を彼に託し、小田原城へ遣わした。

軍使として小田原城の大手門まで馬に乗りつけた男は馬を下り、城から放たれた弓鉄砲が降り掛かる中、左足を引きずりながら不自由な足取りで城門に近づくと、腰の物を外して敵意を向ける城兵に対して語りかけた。

国滅びてはまたと還らず

死人はまたと生くべからず

「方々、命を粗末になされるな。生きられよ」

男の言葉に頑ななまでに拒み続けてきた城門が開け放たれた。

かつて、関東平定の兵を挙げた上杉謙信が北条方を挑発し、盃を干したこの場所で、赤心を持って訴えたこの男を迎え入れたのである。

男の名前は黒田官兵衛孝高。

これは、戦国時代きっての智将として己の才を頼りに戦国の世を生き抜いた男の物語である。

時はさかのぼり永禄元年、二人の少年がススキの生い茂る平原を駆けていた。

少年の名は万吉。後の黒田官兵衛。

そして、もう一人は母里武兵衛。武を持って官兵衛に仕えた男である。

野原を駆け抜け山道を潜り抜けて訪れた場所は廣峯明神の御師伊吹善右衛門の館であった。

御師とは、日本全国六十四州を渡り歩いて自ら仕えるお社のお札を配り歩く下級神職の事で、その職掌柄、他国の世情に精通しているのである。

万吉は、国許に戻った善右衛門から土産話を聞こうと彼の館を訪れたのである。

善右衛門は西の京と謳われた山口へ出向いており、そこで出会った南蛮人の話を語り聞かせる。

善右衛門は万吉に南蛮人からもらったビードロを手渡し、鉄砲の話を聞かせる。

厠へ行くことも忘れ、善右衛門の話に夢中になっていた万吉は失禁するのであったが、万吉は意に介さず、善右衛門に話の続きをねだったのである。

万吉は善右衛門の屋敷を辞し、黒田(小寺)家の居城である姫路城に戻る途中、陣触れの鉦を聞く。

陣触れとは、戦を知らせる早鐘の事である。

戦支度を整えた万吉の父黒田(小寺)職隆は弟たちと共に馬上の人となった。

当時、黒田家は仕えていた小寺政職から小寺姓を頂き、小寺と名乗っていた。

戦場に立った職隆は戦に勝ったものの、職隆の弟たちは小寺家から利用されるだけの不遇な立場を嘆いていたが、職隆は牢人の立場であった黒田家を武家として遇してくれた小寺家に対して恩義を感じていたのである。

戦場から戻り、妻のいわから万吉が善右衛門の館で失禁した話を聞かされた職隆は、我が子の不甲斐なさを嘆くものの、いわは万吉の才を見抜き、一廉の武将となる事を夫職隆に説くのであった。

その頃、遠く尾張の地でその後の万吉や黒田家のみならず、時代の流れを大きく変える出会いがあった。

当時、尾張のうつけと揶揄されていた尾張の駿将織田信長に後の豊臣秀吉となる藤吉郎が仕官を申し出たのである。

信長は藤吉郎を草履取りとして身辺に侍る事を赦したのである。

当時、黒田家の周囲は二つの勢力に挟まれていた。

一方は黒田家が仕える御着の小寺家で、もう一方は龍野の赤松家である。

黒田家はこの小寺家と赤松家の間に挟まれて、両者の勢力争いに翻弄されていた。

先の小競り合いも、赤松家の息の掛った地侍が引き起こしたものであった。

御着城に出仕した職隆は小河良利と江田善兵衛の両家老から先の戦の不手際を責め立てられていた。

主君政職より全騎討ち取る様に申し渡されていたが、職隆は13騎討ち取ったもののその半数以上を逃してしまったのである。

無論、これは小河と江田による言い掛かりであり、新参者でありながら頭角を現しつつある黒田家への嫉妬であった。

黒田と小河、江田の間を取り持ったのが黒田家に対し同情的な石川源吾であった。

御着城でひと悶着あったその同じころ、職隆の命で蔵の中に閉じ込められて本を読まされていた万吉は番をさせられていた武兵衛とその父小兵衛を出し抜いて蔵から逃げ出し、祖父重隆に会いに行っていた。

重隆は目薬の行商を生業として身を起こした男である。

重隆は目薬となる薬草の種別を行っていたが、姫路には薬草の質が悪く、敵方赤松家の領地である龍野では質の良い薬草が生えていると愚痴をこぼしていた。

その重隆のもとに善右衛門が訪れる。

重隆は善右衛門に廣峯明神のお札と黒田家の自家籠薬の目薬とセットで配る事を提案し、財を成した男である。

重隆は目薬で築いた財産を地域貢献に生かし、その名声を聞きつけた小寺家により武士として取り立てられたのである。

その黒田家の当主職隆のもとに敵対する赤松家からの使者が訪れた。

円満と名乗る外交僧は職隆に対し赤松家に下る様に説得し、播磨平定後は小寺家の旧領である御着の領地を与える約束をするが、職隆は黒田家を取り立ててくれた小寺家への忠節を黒田の本分とし、赤松へ下る事を良しとしなかった。

戦国の荒波に翻弄される黒田家に事件が起きた。

万吉が善右衛門の娘おたつとともに姿を消したのである。

万吉とおたつは薬草を取りに赤松の領地龍野に入ったのである。

万吉は病弱な母を気遣い、龍野で薬草を採取しようとしたのだ。

その龍野の地でふたりは赤松方の兵に捕らわれる。

職隆のもとに赤松から再び使者が訪れた。

龍野城に入った職隆は龍野城主赤松政秀に謁見する。

播磨半国と嫡子万吉の身柄を引き換えに内応を勧める政秀に対して職隆は、播磨半国を蹴り、万吉と共にこの場で斬り死にする覚悟を示した。

睨み合う職隆と政秀。

職隆の決死の覚悟を前に政秀は折れるのである。

薬草を手にして母のもとに急ぐ万吉は母より打擲を受ける。

いわは万吉の軽率を叱責し、黒田家の嫡男としての在り方を説いた。

だが、万吉の願いもむなしく、母いわは万吉の将来を案じながらこの世を去った。

この日を境に、万吉は武芸学問に励むようになった。

政職は妻を亡くした職隆に対し後添いを勧める。

職隆の亡妻いわは政職の養女であり、いわの死によって小寺家と黒田家の縁が薄くなる事を恐れての事であるが、職隆は直早々としてこの話を断った。

その職隆のもとに三度赤松の使者が訪れたが、武士としての義を重んじる職隆は赤松からの内応を拒むのであった。

度重なる外交僧円満の来訪に、小寺家家中は浮足立っていた。

職隆に謀反の疑いあり。

主君政職にそう進言したのは、黒田家を快く思っていなかった小河、江田の両家老であった。

その黒田家に対して火の粉が降り懸かった。

内応を拒み続ける黒田家に対し痺れを切らした政秀が報復に出たのだ。

赤松の兵が廣峯明神を襲ったのである。

その赤松の兵を指図していたのが、黒田家に対して同情的な立場を示していた石川源吾の家臣吉田平蔵であった。

兵火が上がる中、万吉は茂みの中から赤松の兵に指示を出していた平蔵の姿を垣間見ていたのである。

万吉からその話を聞かされた職隆は石川源吾と吉田平蔵が来訪している時に二人の陰謀をどうして暴露しなかったのかと問い質すと、万吉は「謀は密なるをもってよしとす」と三略の言葉を持ってこれに応えた。

万吉の言葉に従い先手を打った職隆は吉田平蔵を急襲しこれを討ち取った。

職隆の急襲を受けた石川源吾は政秀のもとに下り、これを持って身の潔白を示したのである。

この時、職隆は我が子の成長を喜び、その才知を愛したのであった。

永禄3年

尾張に攻め入った今川義元だが信長は僅かな手勢でこれを返り討ち、総大将義元の頸を上げたのである。

善右衛門から桶狭間の顛末を聞かされた万吉は、信長の人となりに興味を抱いたのである。

翌年、万吉は元服を果たし、名を幼名万吉から官兵衛孝高と改めたのである。

続く
Posted by 田舎帝王 at 2018年04月01日 22:49
漆黒の闇に包まれた、甲府市内の夜明け前。
けふから「半分青い」がスタートします。青(永野演)の活躍を、詳しく解説して行きます、お愉しみに。

サテ田舎帝王さん。
「軍師官兵衛」の活写、見事也。昨日は視聴を失念したが、あたかも眼前に映像が再現されるかのようである。
お見事、お見事。
昨夜の、雑談で終わったセゴどんは、足元にも、及ばない。
Posted by 百足衆 at 2018年04月02日 04:50
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